だからどうしたって云われても、あなた。これほど楽しいサイトは久しぶりだった。
(倅)セガレ−農業に対し、都会のセガレができること-http://www.segare.jp/なんです。事は重大だ、けど農業に対し、田舎のオヤジができることって、洗濯も宣託も選択もある。センタクは2択、3択、無限択。
すでにオヤジに対しではなく、農業に対しというセンタクをしている都会のセガレである、オヤジに出る幕はない。なのにオヤジは農業とオヤジを区別出来ないでいる。だからオヤジはセガレのままオヤジになってしまったと不断に言われるのである。
「オヤジ、農業をセンタクしたのは決意か、なんとなくか」、中途半端なオヤジを持ってしまったセガレのセンタクはオヤジにしかなれないなあ、なりたくないなあである。事は、セガレは農業を深く考えると、深く考えなくともオヤジと農業をとりあえず切り離して考えるので、なんのことはない「親父の頭と自分の頭は別物だ」アタマで自分を考え始めるという哲学に目覚める。それが都会のとりあえずの良さではなかろうか。
オヤジな農業と、農業なオヤジ
すこし整理すると。オヤジはセガレのなれの果てだ。まだオヤジになれないセガレが見果てぬ先にオヤジをセンタクしたらオヤジなセガレにしかならない。そんなの永遠に青年でしかないコセガレ。
生業という業は、このオヤジな農業と農業なオヤジが未分化のままナリワイにしてしまった様のようなものだ。他の産業はそれなりに、ITなオヤジだったり流通なオヤジだったりを産むが、農業には洗練というものが無いと思っている農業従事者が多いから自らを分身の術で使い分けるほどには自意識がない。
読み替えると「オヤジの農業、農業のオヤジ」
これだと、かなりのセガレが、オヤジの農業のやり方と、農業をやってるオヤジに分けて考えるかもしれない。そこで「農業のやり方」となると「やってないからなあ」ってことになるし、「オレは農業を、とりあえずセンタクしなかった」けどオヤジのことは気になるなあ、だろう。
ピクニシャンのセガールのハンモック
離農家族の月一帰農の雑木林ハンモック。それって農業やってる健全な姿ではないだろうか。人の数だけ農業があってもいいんでないだろうか。農業のやり方が人の数だけあるんじゃなくて、農業の数があると。それで困るのは分類学者や統計をとる総務省や農林水産省、厚生労働省のような類だけだと思う。
ハンモックをつるし心置きなく至福の時を過ごす。これが農業だって、宣言、センタクしてしまえば後は飯が食えるか、喰われるかだけでしょ。生業ってそういうものではなかろうか。
雑木林に入って、炭を焼いたりキノコを作ったりしてれば農業(林業)なのか、樹の小鳥や山菜採りをしてれば農業か。ならばハンモック釣りをしておれば水産業か。法学や経済学や農学のアタマから軽やかに離れようじゃない。
|